ものつくり話 1〜10 ものづくりのつぶやきです。少しずつ追加していきます。

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「もの」つくり話

10 かば君

2002年2月20日PM2:00 本名長谷川サバオ君が永眠致しました。
からだの模様が鯖に似てる事からサバオと名づけたのですがいつの間にか「かばお」になり「かば君」と呼ばれるようになってしまいました。いずれにしてもネコと程遠い名前なんですが。
 この野良ネコの子は約3年前の初夏、自宅の駐車場のハイラックスのリアタイヤに乗っかっているところを発見しました。まだまだ小さくて両手にすっぽりと納まる大きさでした。ぺったんこになったおなかでふらふらしていたので家に連れ帰りえさを与え、よく観察するとこの小さな体によくもこんなにいるわ!というくらいのノミの数(約236匹?)一度はひるんでもとの場所に帰したのですが心配になり家族と相談した結果、もう一度見に行くとまたタイヤの上に。
 それからは家族の一員となり、眠るとどんなポーズにされてもその格好を維持することができる特技でずいぶん私達に笑いのネタを提供してくれました。
 自由気ままな性格で放浪、夜遊びが過ぎたのか今流行りのネコエイズに感染し三年弱の短いニャン生を終えました。
 翌日家族でアトリエに行き、作品にと置いてあった自然石を使った小さなお墓を建ててやりました。これを期に最近寄り付かなくなった家族が「遠い」「暑い」「寒い」と三拍子そろったアトリエに遊びに来てくれるといいのですが。  
「カバ君」今までありがとう。

2002 3・24 (撮影2001・4)

9 勧請縄

 仕事の関係で伊賀上野に行ってた時、気になるものを見つけました。
この野外インスタレーション作品の作者はこの地域に住む人達の共同制作です。この作品は伊賀地方で古くから伝わる「勧請縄」と呼ばれる神事のひとつで、年の始めに地域の長老の指導のもと、各戸から持ち寄ったワラを使ってつくり上げるとのことです。目的は主に地域の無病息災、悪霊退散を願い、毎年その地域の入り口や出口などにこの縄を巡らし「道切り」を行うそうです。
 現代美術の作品ではなかったようです。
 しかしこのプリミティブな造形は壮大なスケールとユニークさで、通りがかりの私の目を引き付けました。この場所は下に小川が流れる谷間なのですが、谷間を横切るこの縄は長さだけでも4、50メートルもあろうかと思われます。自然の美しい放物線を描いた縄の所々にワラでつくられたユニークなオブジェが吊るされています。さかな、輪、ひょうたん、後は何だかかわからないもの色々。とても気になるので調べてみますと、この地域の勧請縄に吊るされたオブジェはこう言った語呂合わせが隠されていました。「悪を払い(ほうき)、福をつかみ(なべつかみ)、うまく(ウマ)、浮世(ひょうたん)、を渡り(輪)、たい(鯛)」と。吊り下げるオブジェは地域によって異なるらしく、それは男女のシンボルであったり何とタコであったりと色々だそうです。
 やっぱりこれはわたしから言わせるとアートですね。
しかも約350年前からつづく歴史と明確なコンセプトを持った大スケール野外インスタレーション作品。ワラで作られた縄1本であちらとこちらの空間を仕切るという概念芸術。ワラでの造形テクニックもなかなかのもの。しかもわざと1年間くらいで朽ちて行くように作っているという。
アートだ!アートだ!と騒ぎ立てること無く何百年も前から淡々と毎年当然やるべき神事として継承していることが説得力となって自然に伝わってくるものなんでしょうね。
 しかし多少のスケベ心を持っているわたしとしては、「今年の鯛はちょっと下手だなーとかタコの足1本多いで」とか作り手のちょっとした癖や思い入れ、個性を味わうのを楽しみにしていきたい心境です。

2002 3・24 (撮影2002・2)

 8 画家魂

 この絵は、今人気の奈良美智さんです。
芦屋市立美術博物館で只今開催中です。家内に連れられ見て参りました。やっぱりすごい人気でした。現代美術の展覧会でこんなに人が入っているのをはじめて見ました。いい展覧会でした。
 奈良美智さんは、よくメディアでも取り上げられ、あの独特の表情の子供の絵で知られています。インパクトのある絵なのでわたしの頭の中にもしっかりとこびりついていたのですが、画集などで見れば十分だと思っていたのです。が、ところがどっこい、本物の絵のよさといったらありませんでした。得にFRPでつくった直径180cmのお皿状のかたちに細かく切った綿布を貼りつけたキャンバスにアクリルで描いた一連の作品は圧巻でした。
 奈良さんの作品はあきらかに最近流行っている、素材感の薄れたキャラクター的な作品とは一線を逸っしています。画集などで見ると、とてもイラスト的に見えるのですが、実物の作品からでてくるものはあきらかに絵画そのものです。何かとても絵画というメディアを大切にしている画家魂がビシビシ伝わってきます。
 取り上げる題材、モチーフ、表現方法、時代性など本当に今の時代にピッタリとシンクロしているからこそ、この人気につながっているのでしょうか。
 一般的に難解とされている現代美術にも作家側のアプローチ次第で一般の人達にもこれだけ理解され共感を得られると言う事はわたしにとってもすごく新鮮に感じたしだいであります。

2002 3・2

  Another Girl Another World
  2001年 アクリル・FRPに貼られた綿布 diam.180×d.26cm

7 立木山の厄参り

 先日、立木山に厄除けのお参りに行ってきました。
約七百段の石段を上がった山の頂上近くに立木観音があります。御存じの方ならおわかりでしょうが、この石段はハンパではありません。石段は、山の斜面に打ち込んだようにつくられておりホントにきびしい。休まずに上がればものの2、30分くらいでしょうが、本年本厄、かぞえの42才、運動嫌いのわたしにとってここへのお参りは一代決心が必要です。
 ですが、息も絶え絶え苦しい思いをし、たどり着いた境内はまことにすがすがしい。冬の張り詰めた山の空気とほくほくと火照った身体からこぼれる白い息。「来てよかった。」といつも感じます。こうして苦労して登ってくると今年の内の最低1ヶ月間くらいは本当に厄も近寄って来れないような気になってきます。
 今回のお参りではじめて知ったのですが、このお寺は弘法大師さんが建てたものらしく、42才の厄年の旅の途中、この付近を通りかかった時、この山より神聖な光る木を感じ、厄除けのためにこの場所にお寺を建て、観音様を奉納されたのが始まりだということです。
 四国の讃岐生まれ、真言宗、政弘の弘の文字、42才、アトリエの近所、と、わたしとの関係があたまの中でオセロが裏返るようにパチパチとつながっていきました。
「ここへ、お参りに来たのはまんざら偶然ではないのかも?」
わたしも弘法大師様も四国の讃岐生まれ、わたしの宗派も真言宗、政弘の「弘」の文字は弘法大師様の名前にあやかったものらしい、同じかぞえの42才、アトリエを建てるためにたまたま選んだこの土地の近所にこんな縁があるとは。
 すべてわたしが勝手に結びつけた縁なんですが、今まで漠然としたことがつながり合ったような気がして、何かしら少しうれしいような安堵感を覚えた一日でありました。

2002 2・9 (撮影2002・2)

6 出会い
 
 今から5年前の97年11月、1本の電話がかかってきました。
「いいプレハブが見つかった。来週にでもそちらに建てに行く。」
「大きさは?」
「わからん。けど、かなり大きいみたいや。」
電話の相手は、福井県の小浜市で建設会社の社長をしていた田中さんからでした。田中さんとはひょんな事から付き合いが始まりました。
 もともとは田中さんは私の友人の陶芸家の知り合いで、友人が田中さんの家に招かれた時、当時、5年生だったわたしの長男が一緒について行き、そちらでかなり野方図な振る舞いをしたのを面白がられ、親の顔が見たかったのか「今度は、その彫刻をつくっているというお父さんを連れておいで。」と言ってもらったのが付き合いの始まりでした。
 古い民家から流用した年期のはいった古材や角が丸くすり減るまで人々に踏まれた床石ををうまくつかった木造の家、はじめて家にお邪魔した時お住まいのセンスのよさに感激してしまいました。それからは家族同士の付き合いをさせていただき、何かと小浜での仕事をつくってくれ、訪ねるたびに小浜の海の幸、山の幸を御馳走になっています。
 当時わたしは、務めていた造形工房で作品を制作していたのですが、時間も場所も自分で自由に使えるようにできないものかと思案していた頃でした。土地は確保していたので田中さんにそれとなく中古のプレハブみたいなのでいいからあったら知らせてほしいと頼んでいたところでした。あいまいな頼み方だったので、突然の電話で驚きました。
「4トントラックで3台分の物件や。クレーン車と生コン車はそちらで用意すること。後はこちらで建てるから。」
わたしは慌てて準備にかかりました。 約束の当日、早朝雨の降る中、4台のトラックで8人の職人さんと田中さんが、はるばる福井県からやってきてくれました。悪い足場の中、1日で4軒×8軒の32坪というわたしには十分すぎるほどの広いアトリエが姿を現わしました。基礎も含め約3日間で完成しました。 田中さんのこちらで建てると言われたのはすべてを含んだこちらでという意味であったのか、せめて実費でもといっても「また今度な、」とはぐらかされます。
 ・
『出会い』という言葉をひとは口にします。わたしも近頃、出会いという不思議な巡り合わせを時に実感し出会った人達に感謝の気持ちを抱きます。本当にこういう出合いってあるもんだと、アトリエで仕事をしていると時々、不思議な気持ちになります。
 田中さんは現在社長の座は退きましたが地元の小浜市の方でも古いお寺を再建したり茅葺きの民家を別荘に改築したりと色々と今も忙しく動かれています。田中さんとの間を取り持ってくれた長男もこの春には高校2年生になります。

               2002 1・29 (撮影1997・11)

5 海月(くらげ)

 「ひとりの人間は、六〇兆個という大変な数の細胞の集まりである。それら細胞のひとつひとつが、アメーバーやゾウリムシのような独立した単細胞生物と等価な生命体である。人間は皮膚によって外界から区別されて、あたかもひとつの生命体であるかのような姿をしているけれども、中身をみてみれば、多細胞生物の『固体』とは、膨大な数の単細胞生物の集合体であることがわかる。皮膚でできた袋に入った小さな『海』の中で、細胞たちは日々の共同生活を営んでいる。そしてそれぞれの細胞たちは、お互いに同じ遺伝子を共有しているという理由で、その同盟関係を維持している。」と最近読んだ本に書いてありました。
 わたしがわたし自身を認識できる領域とはいったいどこからどこまでなのでしょう。細胞ひとつひとつに至るまでわたし自身ということができるのでしょうか。
 わたし達人間の「遺伝」情報の9割は、具体的な形質をコードしていなく、固体という身体をつくるという基準からすれば、何の役にもたっていない遺伝子がほとんどであるといわれています。わたし自身を形成するために必要な遺伝子は、遺伝子全体のたった1割にしか満たないということです。言い方を変えれば残りの9割の私達とは関係ない遺伝子を子孫に伝えるためにこの身体がこの時代に生きているといえるのです。
 人は自分や家族やまわりの人達のために生きていきたいと願っていますが、それは生命体としてほんの一部分であって、もっと大きな自然の流れの中で人が何代も何代もの子孫に『なにか』を残していくために生かされているようにも考えることができます。
 ものの考え方でも、物理的な事であっても、視点や尺度によって答えは違ってきます。そういうことがずいぶん前から気にかかっています。
 物事を判断する時、わたし自身の視点や尺度は常に一定を保つべきなのか。それとも、いろんな視点から見つめるべきなのでしょうか。 
あいまいなゆらぎの中に真実が隠されているのかも。
 ・
いつも海の中で漂っているだけに見えるくらげもひょっとすると強靱な意志で生きているのかもしれませんしね。  
         

       2001 6・9(2002 1・14 改筆)(撮影1996・8)

4 若き塩飽大工

 塩飽大工(しわくだいく)という言葉を知っていますか?
はずかしながらわたしはつい最近まで知りませんでした。塩飽大工とは、「江戸末期から明治にかけ、瀬戸内沿岸を中心に腕のよさで鳴らした塩飽諸島出身の大工の総称。」だということです。(塩飽諸島のほとんどは、わたしの出身地丸亀市になります。)
 先日、わたしの副業としている美術装飾の仕事でお寺の装飾彫刻(向拝廻り)の見積もりがあり、色々と資料を調べてるうちに今年の夏に訪ねた本島にある尾上神社での事を思い出しました。本島は歴史上名高い塩飽水軍の本拠地であり、当時としては最高の技術を持った、『水一滴の漏れも許さない緻密な造船技術を誇った船大工』と水夫の住む島でした。時代の移り変わりとともに船大工達は、宮大工、家大工に転身し、主に香川、岡山などで住宅や社寺建築の名品を生み出しました。
 境内に入り社殿に近づくと、装飾彫刻に思わず目を奪われてしまいました。社寺用語でいうところの獅子鼻(ししばな)、象鼻(ぞうばな)です。社殿本体の簡素な造りに対してなんと、この濃い脂ぎった彫刻は何なんだろう。と、思わずシャッターを切ってしまいました。虹梁(こうりょう)の上部には、海の民の神社らしく、波しぶきの模様もほどこされていました。
 境内の立て看板によると「塩飽工業補習学校」の大工のたまごが建築実習として再建した神社であるという事がわかりました。「塩飽工業補習学校」とは塩飽大工の本拠地である本島に、建築の専門技術の他に科学的知識や教養を兼ね備えた優秀な大工の育成を目的として明治30年に創立された県内初の工業系学校なのですが、様々な理由でわずか20年で幕を閉じた学校だそうです。
 社寺建築の詳しい事はあまりよくわかりませんが、ものづくりの観点から言わせてもらえるならば、決してバランスの取れた美しい建物だとは思えません。明らかにこの建物は正面上部が重たく、細部にこだわり過ぎているような気がします。
 しかし、複雑な曲線の破風(はふう)に三次曲線の屋根をのせた軒、懸魚(げぎょ)、木鼻(きばな)などの緻密な彫刻などからみても、当時の若者達の持っていた、すべての技術と若いエネルギーが込められたかなり力のこもった仕事だと思われます。そして、彫刻や木組みを得意とした塩飽大工の伝統も脈々と受け継がれています。
 この神社がわたしを引き付けた理由は、決して技術の高さだけではありません。「いまある力を出しきり、いいものをつくりたい!」という若者達のものづくりに対しての『情熱』をこの建物が発信していたからだと思います。
「いいものをつくりたい!」という情熱を持ち続ける事は、ものつくりにとって一番大切なことです。しかし、パーフェクトなものを完成させようとなるとわたしにとっても、いつのことになるのでしょうか。       

               2001 12・25 (撮影2001・8)

 
 

3 与島パーキングエリアの猫

 こんなネコがいました。
場所は、瀬戸内海に浮かぶ与島という小さな島。今では瀬戸内海に浮かぶというより橋に踏んづけられている島と言ったほうが適当かもしれません。
 与島はもともと漁業を営むわずかな人たちの住む島だったのですが、現在、香川県の坂出と岡山県の児島を結ぶ瀬戸大橋の天然の橋桁になっています。そこに瀬戸内海のど真ん中、与島パーキングエリアが建設され島に直接車が乗り入れられるようになり、わたしはこのネコと対面しました。
 この橋が完成してもう10年以上が過ぎました。橋を渡るたびにすごく便利なものができたんだ、という実感がこころの底から湧いてきます。車で橋に入る瞬間「行きます!」って言う感じです。御飯を食べる時みたいな「景色も一緒にいただきます!」って言う感じ、こころの中で橋に対して頭を下げている感じです。
 わたしは生まれも育ちも四国の丸亀です。大学から関西にでてきました。橋ができる前、大阪へは旧国鉄で高松港から宇野港までは連絡船で、そこから岡山まで行き、新幹線で大阪へというルートでした。本当に便利になったものです。昔4時間以上かかっていたものが今ではJRで2時間半くらいに短縮されました。車でも前のフェリーを使うルートとくらべると雲泥の差になりました。橋のデザインも美しいし本当に夢の掛け橋です。
 本島からから見ると橋は、しっかりと近くに見上げるようにそびえ立ち、かなり離れた直島からは橋が、ゆっくりと航行する船舶、ぽっかりと浮かんだの島々達と溶け込み、箱庭のような瀬戸の風景を引き締めるアクセントとなっています。これ美術という観点からみると、とてつもなく壮大なスケールで、まわりの景観を変えた環境彫刻だといえます。
 しかし人間もおかしなもので、いざ出来てしまうとそれに慣れてきて、あって当たり前になり、最初はこのおだやかな瀬戸内海の風景が大橋という巨大なオブジェの出現によって一変したあのショックは薄れてきました。昔の瀬戸の風景を覚えているわたしはもう一度、あの橋のなかった自然のままの瀬戸を見てみたいという欲求にかられるのは贅沢なのでしょうか。今では、橋は見上げるもの、島は上から見下ろすものといった構図です。
あっ、ネコの話です。そうです。忘れてた訳ではないのですが、いざ瀬戸の話になると夢中になってしまって申し訳ありません。なんでこのネコの写真を撮ったかといいますと、あまりにもこのネコの模様が印象的だったからであります。旧日本軍の日の丸のついた戦闘機みたいでかっこいいでしょう。(足の裏までしっかり日の丸ふたつ)ここにはこれによく似た捨てネコがうじゃうじゃといます。パーキングエリアにくる観光客が与えるえさで生きているのでしょうか。これも瀬戸大橋がもたらした風景でしょう。このネコ達ためにも途絶えることなくこの島に観光客が来てくれることを願います。  

2001・12・20(撮影1997・9)

2 瀬田川の不思議な木

 瀬田川の曽束大橋近辺は上流に南郷洗堰という琵琶湖の水位を調整するための水門があり、下流には天ヶ瀬ダムとい水力発電のための立派なダムがひかえています。
 ここは、アトリエに通う時よく通る場所なのですがここ数カ月、下流のダムのせいでしょうか川の流れもほとんどなく、水かさが増してきました。水かさが増して行くにつれ、だんだんと球体に近づいて見えてくるこの木の存在が気になってきました。
 普段、この木の生えている場所は、木の下で腰をおろした釣り人が糸を垂らしている光景をよく目にするところです。半分水に浸かることで水面から直接枝が顔をだし、それが水面に反射され、まるで上も下もない無重力地帯に育った木のように見えます。
 冬場は葉もなく干からびたような枝だけで、この木は生きているのか枯れているのかさえもわからなかったのですが、春を迎え新芽を息吹かせ生きていることを私達に不思議な姿で証明してくれました。
木の枝や根っこの事
一輪挿しに生けられた植物の水の中の事
地表より上のものと下のもの
水面よりも上のものと下のもの
上と下のボーダーラインはどこにあるのか?
地上での営みと地下での営み
水面上の事と水面下での事
植物が一本の芽を出すために土の中で何がおこっているんだろう?
言葉にはしにくいモロモロを考えてしまいました。

(文、撮影 1997・4 )  2001・12・17 改筆

1 アトリエ

 わたしのアトリエは、滋賀県大津市大石にあります。位置的には琵琶湖から流れている瀬田川(宇治川)沿いの滋賀県と京都府の県境にあります。厄よけで有名な立木観音さんがある大石という小さな町から小高い丘を上がったところにプレハブを建てて仕事をしています。
 瀬田川沿いに走っている宇治川ラインという道路は、西に天ヶ瀬ダム、宇治の平等院、東は大津の石山寺、瀬田の唐橋につながる観光道路です。春は道沿いの桜、夏には渓流でのカヌー、秋は紅葉といった様々な季節の顔を見せてくれます。
 などと言葉を並べると、すごく恵まれたいい環境に立ったアトリエだと思われるでしょう。少なくとも僕自身はそう思っているのですが、かならずしも誰もがそうは思ってはいないみたいです。
 めったに来客のないアトリエなのですが、都会(大阪あたり)から来られる方々からの言葉のはしばしに、やや同情的と思われる言葉が見え隠れする時があります。「まあ、一人で寂しいやろけど・・・」とか、「静かでいい所やけど大変やろうな・・・」etc・・・
最初はわたしの思いと、このギャップは何だろうと思っていたのですが客観的に考えてみると二、三思い当たることがあります。
 『まずここには水道が通っていない!ここへ上がって来るまでの道が常識はずれに悪い!このあたりの土地は何十年か前に別荘地として売りだされていたらしいが失敗に終わり今では怪しい小屋や土建屋さんの資材置き場が点在している。ここより奥は2〜300メートルで行き止まり、よって一日に数えるくらいしか車も人も通らない!わたしが怠慢なゆえ夏場は草がぼうぼう、秋から冬にかけてはすすきで本当に寒々しく物悲しそう。』などと思い当たる点が多々あります。励まされたりする原因はたぶんそのあたりからきているのでしょう。
 しかし、わたしは決して寂しくも不自由なんかでもありません。
ここへは、さるも、きじも、たぬきも、きつねも、やってきます。(動物ばっか!)春にはつつじ、うぐいすの声、わらびなど山菜類も収穫できます。(自慢!)夏のプレハブの中はホントに暑い。(そよ風の涼しさを実感。)秋は風流なキリギリスの声。冬はホントに寒い。(プレハブ内にも氷が張る。)水は飲み水以外は雨水で十分(天からの恵みダ!)騒音OK・24時間制作可能(しかし、したことはない。)  
 わたしは、こんな所で制作しています。   2001・12・16
     

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