「もの」つくり話 51〜 ものづくりのつぶやきです。少しずつ追加していきます。

Home

「もの」つくり話

60 この夏 

 スウェーデンから帰国し日本での日常生活に戻るのには少しばかり時間がかかった。知人の誰かが、からだのリズムがもとに戻るまで行った時間だけ経たないと完全には戻らないと言った事は僕にはピッタリと当てはまる。今回も、もとの体調に戻るまで約半月以上を要した。サラリーマンのように規則正しい生活をしていればもう少しは早いとは思うのだけれども僕のように時間を自分で組み立てて生きている人間はついつい怠けてしまって余計に時間がかかってしまうのかもしれない。

 この夏は心身ともにとても苦しんだ夏であった。色んな仕事に追われているうちに7月も終わりもう8月になっていた。今年の後半の始りである9月の京都での小品展、高松三越の個展ヘ向けての時間の組み立ては頭の中ではできているのだが、それはあくまで頭の中だけであって心と体は一向に動かない。季節は僕の大の苦手とする夏真只中、しかも愛車ハイラックスのエアコンは去年から故障中。今思えば車での移動時間が長い僕にとってこれは致命的であったのかもしれない。いつにも増して今年の猛暑は僕の心と体をぼろぼろに崩壊した。
 体力的に夏の制作は特に厳しいのは当たり前だとしても新作のプランもまったく出て来ない。というより考えようと思うだけで心が沈んでしまい胸が苦しくなり何もする気になれない。そういう時間が無駄に過ぎて行く。残りの時間を考えるとまた胸が苦しくなる。それを何日も繰り返す。自分では結構段取りができる人間であるという自負をもぼろぼろに打ち砕かれてしまった。

 お盆明けにやっと一筋の光がみえた。そこから少しずつ糸が解けだしなんとか個展に漕ぎ着けた。作品積み込みの当日まで制作をしていたのは今回が初めてであった。何人もの仲間に助けをもらった。
この時だけはもう一人ではどうにもならない自分を感じた。

2005.10.15(撮影3.7)

スウェーデンの森から空を見上げて


Lulea Summer Biennial 2005 報告記

59 空の神様

 少し肌寒く感じるくらいの今のスウェーデンの気温は暑さに弱い僕にとっては最高の気候であった。一番の強敵の湿度も微塵にも感じない。妻に言わせるとここは乾燥し過ぎらしい。制作の時だけでもいつもこんなコンディションで仕事ができたら本当に幸せだと思う。それに加えてスウェーデンの人達のフレンドリーで親切なサポートもあり仕事は何のストレスもなく終える事ができた。この時期のスウェーデン人は得にテンションが上がっているらしい。長く暗いトンネルのような冬を越え短い夏を狂ったように楽しむのだそうだ。
 しかし、ただ一つだけ心配事があった。作品の蓮の葉の色付けの日の天気の事であった。銅板に緑青を着けるためには天日が不可欠なのである。色付けを予定していた前日、前々日はずっと小雨まじりの曇りであった。タイトなスケジュールなのでこの日を逃すと後がない。お天道様だけは僕がいくら努力してもどうすることもできない。ちなみに僕は自他ともに認める雨男である。こっちへ来てから一番の仲良しになったインド系のシンガポール人のチャンドラさんにその事を話した。彼が言うにはお金次第では空の神様に交渉してくれるという。彼はインドの修行僧のようなパフォーマンスをするアーティストとして有名な人物である。参加アーティストの中では一番神様に近そうな人物だ。
「チャンドラさん何でもええからお願いしといてください」
彼にすべてを託した。支払いは後払いでね。
 当日、朝起きて窓の外を見る。今日も雨が降っている。やっぱり支払いは前金だったのか?午前中、曇り空をにらみながら色付けの準備をする。お昼を食べスタジオにもどると外が急に明るくなってきた。森の中に急に日射しが差し込んできた空を見上げるといつのまにか青空に変わっている。これを逃してはなるものかと妻と蓮の葉っぱに霧吹きで薬品を吹き付けて行く。銅板の色が見る間に褐色から鮮やかな緑に変わっていく。
次々と死にものぐるいで色を着けて行く。夕方の時間に差しかかったがここはさすがに白夜の国、日は沈まない。なんとか半日で約500枚の色付けを完了する。
 チャンドラさんに感謝の言葉を言う。彼は手を差し出して笑っていた。
 帰国した日、この日に限って大阪は物凄い湿気との34℃の熱気が僕を出迎えてくれた。「あんたどこから帰ってきたんか知らんけどここは日本やさかいなー。しっかりしてもらわんとアカンでー」
大阪の空の神様にいきなり頭をはたかれた。大阪の空の神様はとっても厳しいのであった。
「ホンマにこの時期の日本の気候、超最悪 !!」
空を見上げ大きくため息をついて無事に日本に帰国した事を実感する。

 結局、スウェーデンの空の神様にはお金は払っていない。代わりと行ってはなんだがストックホルムの空港の募金箱に余った小銭を入れてきた。とっても楽しかったスウェーデンに感謝の気持ちをこめて・・・。

2005.7.4 (撮影6.17)

58  可憐

春には小さな驚きと発見がある。
自宅と向かいとの細い路地のアスファルトの隙間から繊細な生命感を発する花とであった。その花は今にも崩れてしまいそうな不安な面持ちで春風に吹かれている。
その様はまさに「可憐」という言葉がぴったりであった。
僕はその花にけなげな色気を感じた。
たぶん僕はこの可憐という言葉を発するのは初めてだと思う。
という事は僕にとって始めての可憐の発見だったということになる。
と同時に僕はある人のイメージとも重なった。

花は概して美しいものだが、その本質の美しさとは別に置かれる環境によって見え方も変わってくる。このひ弱で繊細な生命感はアスファルトに咲く花であるこそその美しさが増幅する。
そして、ここではアスファルトに咲くたんぽぽでダメなのだ。

春の早朝、この花の発する透明なメッセージを僕は受け取ることに成功した。

2005.4.23(撮影4.22)

朝、自宅前

1993年式 SAAB900S

57 スウェーデン

 今年6月に開かれるLulea Summer Biennal 2005に招待されることが決まった。世界中から360人の応募がありその中の25人なのでなかなかの狭き門であったみたいだ。場所はスウェーデンの北極圏に近いLulea(ルレオー)という町だ。もちろんこの町については僕も応募の時地図で確認するまでは知らなかった。滞在期間中にMid-summer festivitiesとうイベントも企画されておりこの時期は北極圏ならではの「白夜」を体験する事ができるようだ。
 過去の資料を見る限り展覧会の内容は平面、立体、インスタレーション、ビデオアートなど表現方法のバラエティーにも富み展示場所も野外(海岸、公園)、美術館、ギャラリーなど様々でかなり自由度の高い現代美術の展覧会になっている。作品はもちろん持ち込みも認められているが場所、材料、機材、宿泊などすべてを提供してもらえるので私は約2週間の滞在で現地で作品を制作しようと思っている。アシスタントの同行も認められているので今年で結婚20周年になる妻と旅行も兼ねて出かけるつもりだ。アート活動を媒体に海外に出られるという事は言うまでもなくうれしいかぎりである。

 スウェーデンと言えば去年の夏に日本にやってきたイアンもスウェーデン人である。僕の家の車も(正確に言えば妻のものです)スウェーデン車である。やっぱりスウェーデンとは縁があったみたいだ。
 93年式のSAAB 900は4年前に意を決して買った車だ。昔から一度は乗ってみたかった車である。答えは「大正解!」スタイル、乗り味ともに僕のフィーリングにぴったりだった。そしてこの車全体の共通したキーワードは「程よい重さ」だと思う。それが僕にはたまりません。スタイルに関するチャームポイントはたくさんあるが、見て下さい。この極端に湾曲したフロントガラスを!
そして今どきこんなに角度の立ったフロントガラスを持った車はトラック以外には見た事がありません!
こんな車を作ったスウェーデンという国は一見の価値アリかも。

2005.3.18(撮影3.18)

56 Jeans

 卒業展で今年卒業する学生達と話している時、僕の年になるまではアッと言う間だよ。という話題になった。たしかに僕も大学を卒業してからもう20年になる。それまでの間が長かったといえば長かったし短かったと言えば短かった。しかしはっきり言って今も大学時代はそんなに遠い昔の事ではないように思う。
 帰りの電車で缶チュウハイを片手に(オヤジまる出し)あれこれと若かりし頃の事に思いを巡らす。大いに変わったこともあればいまだに変わってない事も多い。
今日得にその事で気に止まった事が僕の毎日のジーンスファッションだ。幸か不幸かスーツを着るような仕事に付いた事がないのでこれは大学時代からいまだに変わっていない事の一つのようだ。あいにくウエストサイズとレングスは変化し続けているのだがメーカーや品番まで当時と同じである。
 僕が少年時代に漠然と思った夢がある。それはずーっとジーパンを履いている大人でいたいということであった。ジーンズ=自由とか若者のシンボルとかといったイメージで70年代と言う時代の風潮が僕にそう思わせたのかもしれない。小学校の頃、人より小さかった僕は中学に上がっても小学生のようであった。少しは自我に目覚め自分の着るものは自分で決めたいと思うようになった。ジーンズもスーパーの洋服売り場のものじゃなくてその頃からだんだんとオープンしだしたジーンズショップで買う事にした。
しかしあいにくその当時は子供用のジーンスなどなく僕にぴったりとしたジーンズはなかった。一番小さいサイズのBig-Jhon の26インチを始めて買った事を覚えている。
大学に入りオシャレな友だちの言う事には「今の流行りはLevis 501やで。」しかもそれはユースドの方が価値があるらしい。「そしてそれをぶかぶかに履く。(今みたいにずらしてはかない!)」と言う事なのでその頃からこのジーンズをはきだした。
 43才になった今も僕は毎日ジーンズを履いた大人である。この25年の間でいったい何本もの501をはきつぶしたのだろうか?
洗いがえなど無く、だいたい2〜3年間くらいは同じジーンズを履いている。2年くらい経つといつも決まって左ひざの上の部分が薄くなってきてある日突然パックリと裂けて真横に大穴があく。そして新しいのを買いに行く繰り返しである。
 毎日愛用していたものをなかなか捨てられなくて穴あきジーンズがたまってくる。最近若い人のファッションはわざとジーンズに穴をあけているみたいだが長年付き合ってその末やぶれた僕のジーンズの歴史にはかなうまいと若者を見て密かに思っている。
 先日もいやがる妻に頼み込んで継ぎをあててもらった。(とても面倒臭いらしい。報酬はUNI-QLOのジーンズより高かった!)破れたジーンズの次の仕事は作業ズボンへのへんしんである。
履き込んで僕に馴染んだ味のある「本物」には、継ぎをあててもまだまだ働らいてもらう使命があると思っている。

2005.3.3(撮影05.3.4)

T邸玄関 「生命の記憶」とアンティークの狛犬

55 相違空間

 思い付いた事を気楽に書いてみようと始めたのページが、最近どうも身構えてしまっている。文章をまとめたい気持ちが強くなってきて、何かすぐに一つの方向に結論付けたりしようとするので不完全な事は避けてしまい結局書けないでいる。言い訳がましいが、忙しさと相まってここ最近ペースが鈍っている。ここでもう一度、初心に戻って思い付いた事を無責任に書いて行こうと思う。
 今年に入ってはや1ケ月が過ぎようとしている。今年は?と言うと今年も去年に増して忙しい年になりそうである。個展が3回、声の掛かったグループ展が今の所5ケ所(そのうち3ケ所は出品済み)毎年参加しているグループ展が3ケ所、大阪芸大学内の野外展などとまだまだ増えそうな感じである。あと、今応募している海外の現地制作のビエンナーレの招待がもし決まれば今年はもう飽和状態である。いくら回数で展覧会を語ってみてもグループ展一つをとっても小さな小品が1点だけの展覧会と2メートルクラスを1点とではボリュームが全然変わってくるので一概には回数では語れない。そして場所性の強い空間は作品とどう対峙させるかが重要になってくる。そして今年は個展、グループ展とともに以前から気に掛かっていた魅力的な展示空間が何ケ所もある。そこをどう攻略するかを今から頭の片隅において作戦を練っている。
 これだけ展覧会をしていると作家で食べているように思われがちだが現実はそう甘くはない。いまだに作品で稼ぐお金は少ない年収の内の3分の1にも満たない。(大きい作品が売れた場合は別だが)
 現在、家族(妻、大学1年男、中学2年男)と一緒に、作品制作を続けながら食べて行くために作品以外から収入を得なければならない。
 大学の非常勤講師、ディスプレーの制作などから足らずの生活費(足らずの方が多い.・・。苦笑)を得るのである。作品の方の収入の比重をだんだんと増やして行くべくがんばっている。
 
 常に納期に追われ心身共にギリギリの状態で仕事をしているディスプレー制作の仕事、それと比べどちらかと言えばのんびりとしたペースで若者達とワイワイ言いながら進んで行く大学の非常勤講師の仕事。自分の世界にどっぷりと漬かって作品をつくる仕事。一体私はどれが本物の自分なのか?
そういう相違空間を行ったり来たりしている私である。

 2005.1.30(撮影03.11.24)

54 蓮(れん)

 今年はまさに蓮に始まり蓮に終わった一年であった。
ドバイの国際シンポジウムから始まり個展グループ展にとつぎつぎとたくさんの大小の蓮をつくり続けた。一目散に走り続け、ふと晩秋の蓮畑に目をやるとそこは殺伐たる風景に姿を変えていた。夏のあのコントラストの効いた鮮やかな色の印象とくらべるとみるかげもないような変貌ぶりだ。
 8月の「蓮によせて」の展覧会と併設していた蓮の写真展の冬の蓮池の写真を思い出した。
 動くあてのない壊れかけたボート、寒々とした空気の中でからからに痩せ細った茎、くしゃくしゃにしなびた葉、うなだれ真下を向き水没しかけた花托。それらすべての上にかすかに積もる白い雪。冬の蓮池、そこはは僕の目にはこの世の終わりとも思える世界に映った。

 すべてをつつみ込んでくれるかのような透明な空気をつくりだすこの美しい植物が、干涸びて死に絶えた老人のような物体に姿をかえる。蓮は天国と同時に地獄をも持ち合わせたような植物なのだと思った。
 
 先日、新聞に今年生まれた男の赤ちゃんに多くつけられた名前のトップは「蓮・れん」だったという記事があった。理由は蓮のような強い生命力をもってたくましく生きて欲しいという願いからだそうだ。今年僕以外にも巷でも蓮はこんなにブームなんだとびっくり仰天だった。と同時に天国と地獄を同時に持ち合わせたこのリディカルな植物(僕の捉え方では)の名前をつけるとはたいした親が多いものだと複雑な気持ちになった。
 しかし、今、人はこういう嘘偽りのない簡素なな真理性を求めているのだとも感じる。
 「永遠」という言葉を僕は信じない。すべてのものは変化しながら生き続けているものだと僕は思う。だが、もう少しだけ視野を広げてみると枯れた蓮には種が残り、見えない土の中にはみずみずしい蓮根が息づいている。そして来年また新しい蓮が芽を吹く。それは終わりを意味するものではない。変化しながら繰り返すという事は「永遠」という言葉にも通じてくる。

2004.12.27(撮影12.1)

「小野和則・長谷川政弘」二人展 守山市民ホール

53 はちす

はちす【蓮】(蜂巣の意。花托の形が蜂の巣に似る)蓮(はす)の古名。
 まさに蓮の花の雌しべは蜂の巣のごとく変化する。この形をはじめて目にしたのはいつ頃だっただろう?10年くらい前だっただろうか。どこでだったか場所は忘れたが、ある舞踏公演のチラシ全面に白黒で印刷された蓮の花托の写真をみて強烈な衝撃を受けた。僕にとってそれは、とてもグロテスクなものにみえた。この物体は作り物なのか自然物なのか?それさえわからなくこれが蓮の花托であるとわかったのは数日後であった。その頃、僕は自然物が生み出す六角形という形がとっても気になっていた頃であった。この蓮の奇妙な形をどうにかして作品に取り込めないものかと幾度と時期を伺っていたが、なかなか実現できず今に至った。
 去年から蓮の作品を積み重ねて行くうちにやっとこの形を使う必然性が生まれてきた。形だけのおもしろさだけでは無くこの形に思いをこめることができた。自画自賛であるかも知れないが10年たってやっと理想的なかたちで作品として実現したのである。この花托と種は「死」と「誕生」の象徴である。あえて「生と死」ではない。現実に存在している僕にはこれから「誕生」は無い。これから訪れるのは「死」であるのだ。作品は作家の想いとかたちによって成立する。多分10年前にはかたちはつくる事ができてもこのモチーフを使う必然性は今ほど感じる事はできなかったと思う。

 今回の守山市民ホールでの二人展はいい経験になった。まずは初対面で年齢も離れ(小野さんは20才年上)表現方法もちがう作家と同一テーマでディスカッションを重ね同じ空間を共有し作品を作り上げる事ができた。
あと広い室内空間でのこれからの自分なりのアプローチ方法もみえてきた。
 左の画像は今回の展覧会のお気に入り写真である。小野さんのこの壁面作品は、戦後のネガティブなニュースをテレビ画面から写真を撮り続け、その画像をコピーし壁一面に張り付けてある。この作品と蓮との思わぬ取り合わせは最初は戸惑いもあったが意外にもマッチしている。この壁面作品は現代の矛盾点を強く感じる作品である。それと古代から変化せず淡々と生息し続けてきた蓮とのコントラストはとてもおもしろい対比となっている。これは表現方法や現代性の捉え方の違いはあるけれど僕と小野さんと考えは根底では繋がっている事のあかしであるといえる。この展覧会はあきらかにこれからの様々な「誕生」を予感させるコラボレーションになったと思う。

2004.11.1(撮影10.8)

52 Good teacher or Bad teacher

 8月の半ばから末まで友人のスゥェーデンの石彫家、Ian Newberyが日本に滞在していた。彼はこのサイトのドバイ報告記にも登場した人物でドバイでは実にお世話になった。彼は去年に日本のシンポジウムに招待されていたので今回で二度目の来日になる。9月の1日から始まる韓国の彫刻シンポジウムに参加するため少し足を伸ばしてこちらにやって来た。
 この滞在中に僕は彼を実に色んな所へ連れて出かけた。来日して直ぐに毎年いっている福井県の小浜市の海へ一泊旅行に出かけ、彼が東京へ行って帰ってくると、僕の実家のある四国の丸亀へも連れて行った。
 彼はとても人なつっこい人物である。かと言ってべたべたとした感じもなく、どちらかといえば物静かな人である。そして相手が外国人であるという緊張感をほとんど周りの人間に与えない。
 面白い話が丸亀に帰省の時とても人見知りである姉が最初はまったく彼の前に出て来なかったのが顔を合わせて15分もたたない間に打ち解けあまり言葉を交わさないものの「今晩、家に遊びにおいで」と言い出す始末である。彼独特のやさしい雰囲気と少ない言葉だけで相手をリラックスさせてくれる。

 イギリス生まれの彼はドバイで会って以来、僕の生きた英語の先生だ。彼も今は日本語を猛勉強中である。普段は英語メールのやりとりだけなので僕はここぞとばかりと英語を試すべく彼とは英語を使って会話をする。多分、お互い85%以上意味は伝わっていると思う。彼は最大限に僕の喋る英語を理解してくれようとする。最初は、今まで勉強してきた文法を意識していたのだが、言いたい事を伝えたいという熱意が強くなるほど文法がみるみる間に崩壊して行く。それでも彼は理解してくれる。最後は本当に単語を並べていくだけになって行く。それでも彼はYour English is good !と言ってくれる。彼は本当に誉め上手である。なので僕も調子に乗って完全に文法の崩壊した英語を喋りまくる。しかしここでのコツは日本語のように言いたい事を最後に持って行ってはダメなのだ。まずは言いたい事を先に言って後に説明を追加するのだ。しかしもうこれは英語と呼べるものではなく英単語を使った本能だけの言語になっている。

 僕が席を外している間、口ベタの妻が必死になってIanに何か伝えようとしていた。おもしろそうなので横で聞いていると妻はとても初歩的な英語を間違って使っている。その度に僕は横から妻に口を挟み会話の腰を折る。それを見かねたIanは僕にI can understand what she means. You are bad English teacher for your wife.と僕に笑って言った。そして僕は彼にI'm sorry. I'm really bad teacter. I always find out other peoples mistakes. と答えた。自分もダメなくせに人の間違いにはとても敏感な僕なのである。
 果たしてこのたいそう寛大な英語の先生と過ごして僕の英語力は上達したのだろうか?一つ言える事は誉め上手のIanのおかげで僕はめちゃくちゃな英語でも人前で恥ずかしがらずに喋る事はできるようになった。
Good my teacher Ian, Thank you very much !!

2004.8.31(撮影8.16)

Ian Newbery「水面」の前で 小浜にて
2004ギャラリーマロニエ個展 Lotus Gardenより

51 空想の構想

 個展をしていると観に来ていただいだ方からよく感想やアドバイスを受ける。今回の個展も「蓮」というとてもわれわれ日本人が慣れ親しんでいるモチーフを使ったせいか、たくさんの方から色んな感想をいただいた。
 僕は、個展とは自分自身を世の中に投げかける行為だと思っている。それを見る側の人々がどう受け止めるかである。僕の仕事に共感を覚えてもらう事はとってもうれしい一つの答えだが、時には痛烈に批判を受ける事もある。そして無視される事も一つの反応であるが、われわれ作家にとって、この無視されるという行為が一番きびしい事ではないかと思う。無視されるという事は、自分が存在しないのと同じ事で自己を表現する作家としては一番身にこたえる。いつもの事ではあるが今回も僕の作品を一瞬で通り過ぎる方もおられた。まあ、これもいたしかたない。人には好みというものがあるのだから・・・。

 だが今回の個展のお客さんの反応はいつもと少し違った反応があった。それは何十分も飽きずに作品をじーっと見つめてくれる人が多かった事だ。長い人になると1時間近くも少しづつ場所を変えながら鑑賞してくれている人もいた。これは作り手にとって本当に嬉しい事である。言葉は無くても最高の褒め言葉になる。単純に「かわいい!」「きれい!」とか「水を感じる」「風を感じる」「外の暑さをすっかり忘れさせてくれた」「吸い込まれそうになった」「気持ちが穏やかになった」様々な感想をいただいたが、僕と交わす雑談の中に「小さくなってこの中に入って行きたい。」という感想も何人かからいただいた。これは僕も感じていた事であった。だが作り手にとって、これを実現するには困難な要素ばかりが頭の中に先立って目をそむけていた。ある一人から一度低いアングルから写真を撮ってみては?というアドバイスを受けた。画像を見た時、僕の気持ちがはっきりとした。それはとっても楽しそうな蓮の森である!この中に入りたいという空想を空想のまま終らせてはダメだ!空想を構想に変えるのだ。そして現実に!! 僕は空想を現実に近づけるために作品をつくり続けているのだから。

2004.7.13 (撮影7.10)