30 日替わり水滲画
- 毎日々、日替わりで変わり続ける水墨画があります。私はこの絵を「水滲画(すいしんが)」と名付けました。理由は簡単!水が滲(にじ)んで描かれているから。ただそれだけです。作者はお天道様。厳密に言えば雨かな?
- そして、テーマはファミリー。これは何のファミリーだろうか?・・・
- 人間? 宇宙人? 幽霊?・・・
- 場所は伊賀上野の名阪国道の上り口の約100メートルくらい続くコンクリートの壁面です。この壁は普段でも湿気が多いのか晴れた日でも小さな排水口から墨汁となる雨が漏れ出し黒い影の群像を描き続けています。
- 得にこの付近の壁は白い矢印まで描かれていて何か意味ありげな現代絵画の匂いが漂っていました。
- 初めて気付いた時は夜・・。うっすらと浮かび上がった数人の人影 !!
- ハッとして思わず振り返った。よく見ると排水口からの雨の滲み。
- 「なーんだぁ。」ホッとして胸をなで下ろしました。
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- 翌日じっくりと壁を観察しました。見れば見るほど感心です。全体にはモノトーンに見えながらも奥深い色合い。微妙なぼかし具合、滲み具合。乾いている所と濡れている所との色のコントラスト。排水口の小さな穴が頭にも見え場所によってはそこから雑草や苔が生えている箇所もありそれが髪や帽子にも見え影のバリエーションをを増やしていました。
- この絵は天気によって変化します。晴れの日が続くとだんだんと影が痩せてきて最後には干からびてしまい煙りのように消えてしまうのです。上の写真でわかるように完全に乾いてしまった影は本当に天に向かって昇天して行くような筆跡を残しています。
- そして雨が降れば太り始め下の写真のように形は全体に丸みを帯び空には暗雲が立ちこめてきます。
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現代彫刻には風で動いたり、光を取り込みまわりの景色を映したり、作品の影を巧みに利用したりと自然とのかかわりを大切にした作品が多くあります。私の作品も野外設置となると「生命の記憶シリーズ」などは光や影も大切な作品の要素です。立体作品は最終的には現実(環境)から逃れる事はできません。その分、平面作品とは違って環境との共存あるいは対峙という考えが生まれてきます。
- 自然によって絵描かれた「水滲画」は環境によって変化し表現力豊かに私に語りかけてきます。
- 自然と共存し環境の変化によって姿を変える。そういうコンセプトの平面作品をつくる作家と私は今までに出会った事がありません。
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- そう言えば伊賀上野といったら書道で有名な「榊 莫山(さかき ばくざん)」が住んでいる所ですよね。
- 莫山先生、伊賀上野のこんなにおもしろい作品の存在、御存じでしたか?
2003.3.16(撮影2003 2.28 3.15)
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29 ペア
- 最終的には、妻の決断でこの絵を買った。
- 速水史朗さんのタブローである。
- 彫刻家として有名な速水さんの作品の中でタブローはめずらしいのではないかと思う。
- 猪熊弦一郎現代美術館で速水さんの大きな個展が開かれていた。その近くの丸亀駅構内のギャラリーで小品展も同時に行われており、この鮮やかなタブローが私達の目を強く引き付けた。
- 金銭的諸事情を考え購入自体を悩んでいる私を尻目に彼女はすでにどれを買おうかと悩んでいたのである。
- 「せっかく買うのならやっぱりペアでしょ!」
- 絵はどれも色違いのペアで飾られていた。
- 「離婚したら離ればなれかな。」と悪い冗談をいいながら私と妻とで一点づつ買う事にした。
- 展覧会が終わりこれらの絵が送られてきてクールな眼でもう一度よく絵を観てみた。
- やっぱりいいものであった。
- 妻の決断にはこれまでも何度かはっとさせられた。
- 私の長年の憧れであった古くリスクの高い北欧の車を手に入れた時もそうであったし、去年のバルセロナへの旅行を決めたのも彼女であった。
- その車は今も私達の満足感を満たし調子よく走っているし、バルセロナは本当にいい旅であった。
- 現実的になりがちな私を非現実的な所へ時折寄り道させてくれるのはいつも妻である。感覚だけで、もの事を判断する妻を羨ましくも思う。
2003.3.9
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28 誕生
- 鋳型の割り出しは、いつも期待と不安が入り交じり複雑な思いである。
- 成功か失敗かは、鋳込みの瞬間の湯の流れ具合やガスの抜け方である程度は予測はできる。
- しかし実際には、鋳物は型を開けて見るまではわからない。
- この鋳物は今年に入って二回目の鋳物だ。私の鋳型だけで大小合わせて七型あった。
- うまく流れていた。
- 鋳物には、流れにくい形態やどうみても失敗はしないであろう形態があるのだが、やっぱりそれは型を開けてみるまではわからない。
- 古くから、火を扱う仕事場には神棚がある。やはりここにも神棚があり、金属の神様『金屋子様』を祭っている。絶対に失敗が許されない時は、本当に神様に頼りたい気持ちになる。私も何度か手を合わせた。
- 鋳型の割り出しは、ものの生まれる瞬間に立ち会う事になる。
- この瞬間は、大袈裟な言い方をすれば生命の誕生にも似ている。
- それは私のごく小さな世界の中での出来事なのだが、鋳型を開けると顔を出す美しく輝いたブロンズの肌が現れた瞬間、自分の手でものを生み出したという実感がググっと込み上げてくる。
- ここはまだ作品が完成するまでの一場面にすぎないのだが、この瞬間は、鋳造作品の制作工程のクライマックスであり感動的場面だ。
- ここから初めて、想いのかたちに変化を遂げたブロンズとの対峙が始まる。
2003.2.25(撮影2003.2.17)
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- 木津川堤防にて
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27 老車
- 14万円で手に入れたこの車には、ずいぶんとお金もかけた。
- 現在、走行メーター24万キロ間近である。
- 17万キロで僕の所に来て4年足らずで7万キロ走った事になる。
- ものを積める車が欲しくて、とりあえず一年でも乗れればと思い手に入れた。
この武骨で傷だらけの四輪駆動車はどんな場面にも絶対の安心感がある。
- よく働く。
- そして燃料もあまり喰わない。
- ずーっと患ってきた原因不明の持病はこの夏に知り合った名医の手により一発で完治した。
- 年に一度か二度くらいしか洗わない。
- 焼け石に水の歪な悪法によって、あと数年でここ京都府からもディーゼル車が追い出される事になるらしい。
- つくってきたものを大切にしない国の姿勢がみえる。
- 先日、偶然にも路上で炎上する四輪駆動車を見た。
- その瞬間、この車のカーステレオから明かりが消え、仲間の死を憂いてか音を失ってしまった。
- それ以来、音のない車の中は、とりとめもない事を考える空間にした。
2003.2.7(撮影2003.2.8)
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26 始動
- 6ヵ月以上のトンネル(つくれない?つくらない?)を抜け、やっと動き始めました。会社勤めをやめて5年、ある程度時間を自由に使えるようになってからこんな感じは初めてでした。
- 今年は、初めての東京での個展を11月頃に日本橋三越本店で開く事になり、これまでの幾つかのシリーズを出品する予定です。
- 「年が明けたら」を区切りにつくり始めようと考えていました。しかし、この何ヵ月もの間にこれといった新作のアイデアが出た訳でも無く、とりあえず今回は、これまでのかたちのバリエーションで比較的小さな作品からつくり出しました。久しぶりに素材を触ると、再び制作の炎がメラメラと灯ってきた感じです。次の作品の影も見え隠れしたりしています。仕事の後のお酒もうまいし、今はっきり言って、ほっとしています。
- 今回の鋳造の私の型は、ガス型(型砂をガスによって固める鋳造法)2型、真土式鑞型(鑞によるの消失原型鋳型)1型の3点分です。
- 鋳造技法は鋳込みが最大のヤマ場です。しかし鋳造は非常にギャンブル性の高い技法で、湯(溶解された金属)の温度加減や鋳型の状態、流し込み方などの様々な要素がからまってうまくいったり、流れきれなかったりします。幸い今回は三点ともうまく流れてくれましたが、失敗するとまた鋳型づくりを一からはじめなければなりません。鑞型に限っては鑞でつくった原型自体を焼失させてしまうので原型から作り直す事になります。したがって鋳込みは自ずと気持ちが高ぶり緊張します。この瞬間は、少しづつかたちを変えながら制作して行く他の技法と大きく異なる所でしょう。
- 今、チラチラと見え隠れしている次の作品の影、しっぽを引っぱっては逃げられ、捕まえたつもりなのに中はもぬけの殻。ものをつくっている時は、その繰り返しです。影を少しづつつなぎ合わせて次の作品が顔をだします。
2003.1.30(撮影2003.1.28)
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25 ああ、大仏様
- 「盧舎那大仏様、私は罪を犯してしまいました。」
- 「元旦早々、大仏様のお膝元で横入りしてしまった私は『行列横入り禁止の令』にのっとって『横入り罪の刑』に処されるのでしょうか?」
- そうです。私は今年の明けた1月1日午前0時15分頃、東大寺大仏殿の手前で南大門まで続いていたであろう大行列をよそに何食わぬ顔で横入りをしてしました。というよりもなってしまったと言いたいのですが。
- 去年の暮れは奈良市内の友人宅で大晦日を過ごし、そのまま東大寺へ初詣でに行こうということになり三家族で東大寺に歩いて向かいました。東大寺境内を熟知している友人はぴったりと大仏殿の真正面に出るルートを歩き、入り口にたどり着きました。先行していたグループに追い付くために何気なく行列に合流したのですがこれが結果的に横入りになってたのです。
- 少し先方で警備員と若者のグループが激しく言い争っています。
- 「君らには公共でのエチケットと言うものがないんか!」
- 「やかましいわ。おっさん!」
- どうやら横入り防止の為に警備員がいたらしいのですが若者とのやりとりで手をとられていたみたいです。「今さら後ろまで行って並ぶのもなあー」私達はバツの悪い顔を下に向けてその場をやり過ごしました。
- 混雑防止のため、何十人かごとに開かれるゲートが開き私達は大仏殿の前に解放されました。
- ライトアップされた大仏様は何かいつもより怒った顔で私を睨みつけ「もうお前にはこれより先に未来などない。」ときつい一言。
- というのは冗談ですが昼間にみる薄暗い光の中の表情とは違いスポットライトを浴びた大仏は金属特有の光沢を放ち、表情がとても硬質に見え、大仏はやっぱり青銅製なんだと改めて感じました。
- 今年は「行列で横入りされてもニコニコ。車で割り込みされてもニコニコ。人にはいつもより親切に。」をモットーにと心を決めた私でした。
2003.1.15 (撮影2003.1.1)
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24 2002年・40代
- 「年が明けた。今は、張り詰めた気持ちもなく何となくといった感じだ。
そのうち今年のかたちも見えてくるだろう。が、ボーと過ごすとすぐに時が過ぎてしまうということもわかってきた。しかし、今は、これといった目標を持つ気にはなれない。 そのうち、何かかたちが見えてくるだろう。」これは2002年の始めに思った事だ。
- 私の誕生日は12月27日と年末である。したがって年内中にその年齢で過ごすのは数日なのだ。この誕生日で41才となったのだが2002年に過ごす41才はたったの5日間なのである。
- 2002年は40才代初めての年になった。30才代最後の年2001年は私からすると驚くほどあれこれと動き回った。その分今年は緊張の糸が切れ、なるがままにまかせようという気持ちになった。
- 今年は前半、かなり色々な事があった。
- 後半はほとんど何も無かったといってもいい。
- だが、少しずつ種は蒔いてきている。
- まだ、徐々に でいいように思う。
2002.12.29
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- 2002年12月27日 アトリエの机上(手前は乾燥中のみかん約一年)
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- 第一回神戸須磨現代彫刻展「位相-大地」1968年 関根伸夫アートワークより
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23 上狛の「位相-大地」
- 私の住んでいる山城町内の上狛西地域で遺跡の発掘調査が行われており説明会があったので見学してきました。この地域は、上狛西遺跡(弥生時代中期)山城国府跡(奈良時代)恭仁京右京跡(奈良時代)に属しており、各種、各時代の遺跡が複合しているというからすごい所です。
- 今回の主な調査は、弥生時代中期〜後期(2〜3世紀)の遺跡でここから重複した縦穴式住居址を15軒以上を検出したということでした。
- 木津川が大きく湾曲したこのあたりの定住集落と以前から確認されている丘陵縁辺部の集落の子孫が古墳時代の幕開けを飾る「椿井大塚山古墳」(同町)の基礎を築いた集落かもしれないということでした。これからの詳しい分析調査で次々と歴史がつながって行く事でしょう。
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- 私は歴史にも興味があるのですが、新聞でこの記事をみて何に一番興味を持ったかというと、土を掘ったこの「発掘造形」です。
- 彫刻家は自らのイメージを自らの方法論で造形していくわけですが、発掘作業は先人がつくった未知の対象物に導かれながら掘り進められていきます。発見が前提なのですが、最後には美しい幾何学模様や等高線状のアースワークという素敵な副産物も生まれてきます。この行為は、立場の違いこそあれ発見と創造という意味ではほとんど同じような快感があるのではないかと私は思うのですが・・・
- それともうひとつ私の目を引いたのが遺跡を掘った後にできた土の山です。掘られてできたマイナスの造形に対し隣にプラスの造形があります。こちらの造形もなかなかのもので全体は前方後円墳のようなかたちをしておりツンと尖った山の稜線はよく晴れた青空に緊張感を与えていました。この無作為な美しさは「発掘造形」ならではのものです。
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- 下の写真なのですが現代美術に興味のある方ならピンとくると思います。関根伸夫さんの1968年の名作「位相-大地」です。この二つは目的の違いこそあれ、大地を掘りかたちをつくるという事で共通しています。この作品はただ直径2.2メートル深さ2.6メートルの穴を掘りその土を同じ大きさの型枠に詰め込んで土の塊をつくっただけの作品なんですが、関根さんの作品はシンプルなかたちとしている分、物質の存在する迫力、コンセプトが強くはっきりと伝わってきます。ここが「発掘造形」とアートとの違うところです。
- 不思議な事は、この後の関根さんの「位相-黒」という作品で、ここの掘られてできた土の山によく似たかたちが何度も登場します。案外、関根さんは発掘現場からインスピレーションを受けてたのでしょうか?
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- などと勝手に遺跡の本文を外れてあれこれ自分寄りに考えを廻らせたのですが、過去の関根さんの作品がそうであったように、この遺跡も調査が終わりしだい埋められる運命にあります。記録写真だけがこの風景を残すことになります。しかしこれらに関する膨大な資料と私達の目にとどめた記憶は消える事はありません。
2002.12.19(撮影2002.11.23)
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22 気になる木
- テレビコマーシャルで聞いたようなベタなタイトルですが、本当に「気になる木」なので仕方がありません。このおかしな木は私の最寄り駅のJR奈良線上狛駅前に生息しています。駅前がこんな風景だということから私の住んでいる場所はどんな所なのかある程度想像してもらえると思います。
- そうです。とてものどかな所なんです。朝とともに明るくなり、夜になるとちゃんと暗くなる。奈良と京都の県境近くにあるこのあたりはたいへん歴史が古く何処を掘っても遺跡にあたるそういう場所です。
- この土地に引っ越してきてもう10年が経とうとしています。引っ越し魔の私からすれば10年は最高記録です。何の縁もゆかりもない土地だったのに不思議に思います。
- 10周年というこで私にとってずっと気になっていた「気になる木」の正体を知るべくため、ついに意を決して突撃取材に行ってまいりました。
- このお家は福井商店というタバコ屋さんです。福井さんの話によれば、この木は、ヒノキとセンダンという木の合体で50年近く前からあるらしく御主人が一年に一度、剪定を行っているそうです。
- 内部を覗いてみると、全体のフォルムをつくりだしている直径20cm位のヒノキとそこから枝を突き出している直径40cm位のセンダンが並んで生えています。中を覗いて驚いたのは意外にもヒノキはこの円筒形のフォルムよりもかなり中心がずれていた事でこの形にするまでの御主人の苦労がうかがえます。
- 木の下方にはミスマッチなタバコの自動販売機と五体並んだお地蔵さんのほこらがあります。しかし、縦長の自販機と横長のほこらがかえってこの木の足元を引き締め全体の構成をまとめています。ちなみにこのお地蔵さんはいつもきれいに手入れされておりこの場所にしっかりと根付いています。
- この風景はここ何十年も変わらず、なくてはならない上狛駅前の風景となっています。そのユニークな姿で、毎朝、人々を送りだし夜はやさしく出迎えてくれ人の心をなごませる重要な役割を果たしています。そして、季節がくると突き出た枝から新芽を出し、形がいびつになってくるとさっぱりと散髪してもらったりして自分は「ゆったりとした生き物」であるということを私達に語りかけてきます。
- 新興住宅街の駅前にいくらすぐれたモニュメントを置こうともこういった人をほっとさせる空間をなかなか作りだすことができません。このように時間をかけゆっくりと作りだした風景ほど人々の心にしみ込むものはないでしょう。
2002.12.18(撮影2002.12.17)
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21 HARU
- 左はHARUという作品です。右の人は画家の友人で春澤振一郎さんです。ここは彼のアトリエです。HARUという作品は私が大学の四回生、約20年前につくったものです。当時、同級生であった彼をモデルにして鉄板を溶接し制作しました。
- この作品をきっかけにものづくりの面白さにのめり込んでしまい現在に至っている訳なんですが、もうひとつには彼の影響がとても大きくあります。春澤君は大学当時からすごく大人びた考えの持ち主で高校生時代から姫路の現代美術作家に師事しコンクールやグループ展に出品し画家の道を突っ走っていたのですが、絵は家でも描ける。しかし立体はなかなか家では作れない。得に金属はもっと大変だ。というシビアな理由でさまざまな金属加工法を学べる金属工芸を選んだという当時のわたしの試験が鉛筆デッサンだけで入れるという簡単な理由とは裏腹に金工に入ってきた彼と四年間過ごした訳です。
- まあ、その四年間、彼にも私にも本当に色んな事があったんですがそのあたりは省略して、遊ぶ事もそこそこ飽きてきて、ものづくりにのめり込んで行く私の目の前で個展を開いたりコンクールで受賞したりする彼がとてもかっこよく見えてきたきたのです。大学院という事すら思い浮かばなかった私にそれを進めてくれたのも彼でした。
- それからは何とか細々と制作を続け、「一体なんで俺はこんなめんどくさい事やってんのやろ?」という壁にもぶち当たり、彼の結婚式の挨拶でこんなエライ世界に入ってしまったのも彼のおかげだと半分恨みがましく言ったこともあります。
- 現在春澤君は、美術研究所を経営しながら画家をしています。
- 逆かな?
- この夏に会った時、彼からこの作品を引き取りたいという話しがあって先日アトリエまでいってきました。20年ぶりに春澤君の分身は、本物の春澤君との対面を果たしたわけで子供達は「鉄のお父さんや。」と大はしゃぎ。その晩、美味しいボタン鍋を腹一杯御馳走になり、久しぶりに枕を並べて朝方まで語り明かしました。
- 大学当時から作品のように太っていた彼はこの作品よりももっと大きくなり、どちらかというと痩せていたわたしも自分自身がモデルじゃないかと見間違われるほど成長してしまいました。
2002・12・9 (撮影2002・11・27)
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