International Sculpture Biennial 2006 Chaco Argentina 報告記

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stay at Argentina on July 13th〜24th 2006

 
 International Sculpture Biennial 2006 Chaco Argentinaこのアルゼンチンのビエンナーレの事は以前から知っていた。彫刻家の田中等さんからずっと前にこの情報をもらっていた。去年のスウェーデンのLuleaビエンナーレに参加した際、スタジオの事務所に前回のポスターが貼ってあり内容はとてもよかったという評判を聞いていた。秋にスウェーデンの彫刻家Ian Newbery からもメールをもらい今回は金属なので応募してみては?と進められた。アルゼンチンは遠いなぁーというイメージが先に立っていたのであまり乗り気ではなかったのだが一応ホームページをチェックしてみた。
 なんと前回の受賞者の1st PrizeはスウェーデンLuleaのオルガナイザーのDan LestanderとRicky Sandbergが受賞しており2nd PrizeがLuleaにも作品があった石彫の井上麦さんが取っているではないか!! 急に親近感が沸き上がって応募した次第だ。ドバイの時のような大型の蓮のプランで応募する。(ものつくり話し63地球の裏側へ)
 このビエンナーレは世界各国から応募者が272人の応募があり11人の作家が選出された。日本からも8人の応募があったらしい。1.5m×3m、厚さ3mmの鉄板を2枚使って鉄の彫刻を7日間で完成させる。公園内に設けられた制作スペースでシンポジウムスタイルで彫刻を制作し、完成後審査され各賞が選出される。
招待が決まってから田中等さんから井上さんは今偶然にもアルゼンチンのブエノスアイレス在住である事を知る。メールで連絡を取ってビエンナーレの事、アルゼンチン行きに関してたくさんのアドバイスを頂いた。

 春は大阪でのグループ展の「彫刻の力」に出品する大作に没頭しており7月のアルゼンチンの件は頭の隅に追いやっていた。展覧会も終わり5月の末頃そろそろアルゼンチンの準備をと、まず「地球の歩き方」めくってみた。アルゼンチンの通貨はペソである。それはわかっている。しかしここで恐ろしいことに気が付いた。ペソの通貨記号はとなっている。なんでペソなのにマーク?? 
もしやと思い募集要項をめっくってみる。頭の中が真っ白になった。とんでもない勘違いをしていたのだ。要項には今回の参加に対する報酬は渡航費込みで$4500(4500peso)とある。僕は勝手にUSドルとペソはレートが同じなんだ。と思い込んでいた。完全に4500USドルだと思っていた。アルゼンチンペソはなんとUSドルの3分の1なのだ!!向うに着いてしまえばお金は必要ないとはいえ、これでは渡航費にも満たない金額である。出稼ぎ(本来は武者修行です。)と称して海外に出かけている僕にとって今回の海外はいきなり赤字となってしまった。賞金の額もそれに伴って3分の1にダウン。という事は3位入賞でトントン。出稼ぎとしてお金を持ち帰るにはそれ以上の賞に入らなければならない。
純粋なる武者修行で終わるか、賞金稼ぎにもなれるか、非常に重いプレッシャーを抱えた渡航となった。
5月のワールドカップでは不甲斐ない結果で終わった日本チーム。海外チームとの戦いに対してに技術もさる事ながらメンタル面の弱さばかりを取りざたされている昨今、アートといえどもこれはコンペあるからには戦いだ。果たして海外作家に対して僕はどう戦うのか?

ガラスの水滴に興味を示す子供達。地元新聞より
このガラスの水滴が税関で問題になった
オープニングレセプション 中央が今回の主催者のボス彫刻家のFabrciano

7/13(木)〜14(金)

 お昼に妻と長男に奈良まで送ってもらい、いつものコースでリムジンバスで関空へ。いよいよ地球の裏側に向かって出発する。
アルゼンチンまでのルートは、アメリカのダラス経由でブエノスアイレスへ、そこから国内線でシンポジウムの開催地レシステンシアへ向かう。
 ダラスまでのフライトはたっぷり12時間。長時間のフライトはとなりの席の人によって左右される。満席で通路側は空いておらず中央の4人掛けの端から2人目。席としては最悪。そして僕の左となりは典型的なアメリカの太った御夫人。しかも友人らしい右となりの男性と僕の顔越しに陽気に話をする。たまりかねてとなりの男性に席の入れ替えを尋ねたが遠慮された。最悪の状況下で12時間を乗り切る。トランジットは約2時間。
 ここからブエノスアイレスまで10時間のフライト。この便はぱらぱらと空席がある。いつもの事ながら眠れない。ただ眼をとじて時間をやり過ごす。
 アルゼンチン時間の14日朝8時過ぎに到着。旅行会社のプランでは10時50分発のレシステンシア行きで乗り継ぎと言う事だったが国内線の空港が車で1時間近く離れた場所にあるうえエセイサ国際空港で入国での時間がかかれば乗り換えはむずかしいのではないか?という井上麦さんのアドバイスで次の便の夜の19時46分に変更することにした。
 入国はスムーズに行ったのだが税関でえらい事になった。
事前に麦さんからこのエセイサ空港は悪名高い世界ワースト1の空港だと聞いていた。荷物の中のものがなくなったり税関の職員が賄賂を求めてくる事がしばしばあるので気をつけて、と言う事だった。案の定、僕のパスポートが日本人のものであるとわかった職員がすぐさま荷物を開けろという。制作目的の彫刻家の荷物の中身は怪しいものでいっぱいだ。今回問題になったのは蓮の作品に使う数個の大きなガラスの水滴だった。これはいったいなんだ?ということから始まり金額的にいくらの価値があるのだ?と聞いてきた。確かにこれらは何か高価なものにみえる。「これは今回アルゼンチンに招待されて彫刻を制作する作品の一部だ。売り物でもないし値段のつけられるものではない。税金の対象にはならない。」と英語で説明するのだが国際空港の税関職員のくせにほとんど英語がわからないようだ。3人で僕を取り囲みとりあえず100USドルを払えとスペイン語で延々と言い続ける。
100ドルとはいえ訳のわからないお金を払う事は僕のプライドが許さない。
絶対に払わないと僕は突っぱねる。押し問答が20分以上続く。
 頑として払おうとしない僕をみて一人の職員がふざけて水滴を彼の鼻のあたりに持って行って鼻水みたいにして仲間に向かって笑った。
ここで一気に僕の怒りのスイッチが入った。思わず大声で「お前らオレをバカにしてるのか!!。絶対にお前らにはビタ一文たりとも払うつもりはないからなぁ!!」
英語と日本語ともわからない言葉で大声で何度もそいつに向かって怒鳴った。僕の豹変ぶりに驚いた彼らは奥に座っていたボスの所に駆け寄り何かひそひそ話をした末、僕にパスポートを突き返しあっちへ行けと身ぶりで促す。ついにどこかに連れて行かれるのかと思ったがその方向は出口であった。
 扉の向うに解放された僕は何度も胸をなでおろす。急に怖くなってきた。彼らの要求は正当なものか不当なのもか実際に僕にもよくわからなかった。
井上さんの話ではほとんど日本人が職員に囲まれると言われるがまま100ドルくらいなら払ってしまうそうである。なので彼らにとって日本人は私腹を肥す最良のカモなのだそうだ。まったく気分の悪い入国である。空港から一刻も早く離れるべくレミース(予約制のタクシー)の手続きをする。空港内で配られたビラには空港の客待ちのタクシーには絶対に乗るなと書いてある。観光客を狙った犯罪が多発しているらしい。えらい国に来てしまった。
 ブエノスアイレス市内にある国内線の空港であるエアロパルケには10時頃到着する。11時半頃エアロパルケに井上麦さんが会いに来てくれた。緊張が一気にほぐれる。
 11月に日本大使館広報文化センターで行なわれるアルゼンチン彫刻家と行なわれる交流展の作品を井上さんに預ける。昼食を一緒に食べチケットの変更をしてもらい3時頃別れる。あとはひたすら19時46分のフライトまで待つ。
 40分遅れで飛行機が離陸した。約1時間半で目的地のレシステンシアに到着した。現地時間で午後の10時だ。日本との時差は12時間遅れ。と言う事は京都の自宅を出発して丸々二日経っていた。さすがに地球の裏側だ!。もう身も心もへとへと。
「長谷川さんですか?」と日本人らしき人に声を掛けられた。その方は今回大変お世話になったボランティアの通訳の寺田さんであった。まさかアルゼンチンの奥まった町に日本人通訳が居てくれるとは思っていなかったので大感激。寺田さんは二十歳くらいにこっちに来てもう50年になるというがとっても若々しい。そのままレセプション会場に行く。レセプションははもう始まっており僕が最後に到着したアーティストだった。カナダのDon Dicksonの顔が見えた。ドバイ以来の再開!感激の挨拶を交わす。食事をしながら自己紹介や明日からの予定の説明。料理もおいしくワインもいける。疲れが癒される。先ほどの寺田さんと1年間の日本留学の経験がある大学生のJuan君がこの期間中通訳をしてくれるということだ。
 ホテルはこの町一番の高級ホテルだがなんと二人部屋。ポーランドのPiotr Twardowskiと同室になる。物静かだが無口ではないちょうどよい距離を保てるいいルームメイトだった。偶然にも彼は前回の宇部の彫刻展に本入選しており大型作品を宇部に寄贈してきたそうだ。日本を発って2日ぶりのベッドに入ったのは夜中の3時半であった。

7/15(土)1日目

 朝7時、同室のPiotrに起こしてもらう。熟睡していたようだ。ホテルのレストランで朝食。シンポジウム会場までバスで移動。南半球のこちらは、季節的には真冬であるがアルゼンチンでも緯度の低い(日本で言えば沖縄くらい)このChaco地方では寒くもなく暑くもない季節らしい。夏の嫌いな僕には絶好の季節のはず。今日はあいにく少し小雨のぱらつく天気。
 会場の公園に大勢の観客が集まりマーチングバンドの演奏の派手なオープニングファンファーレと国歌演奏にあわせアルゼンチン国旗と作家それぞれの出身国の国旗掲揚。そして鳩を空に放ってオープニングセレモニーが終了した。
 今回のこのシンポジウムはレシステンシア(Rsistencia)市と、チャコ(Chaco) 州、アルゼンチン政府から予算が出ている。一般企業からはコカ・コーラ、アルゼンチンHONDAモータスがスポンサーになっていて今までで一番大掛かりな国際ビエンナーレになったらしい。僕達の彫刻シンポジウムを頂点にこの大きな公園内でアルゼンチン国内の美大生10人による木と鉄のシンポジウムと一般市民グループ参加の彫刻制作などがいたる所で行なわれる。特設ステージを組んで夕方にはコンサートもある。地場産業を紹介するブースもたくさんありお土産物やさんや露天も出ている。さながらこれはお祭りである。
 午前中は電源の配線、溶接機、エアープラズマー(鉄板の切断用の機械)のセッティング。しかしここはテントもないまったくの露天である。昼から雨は上がったが鉄板は濡れている。これから雨が降ったら一体どうするつもりなのか?溶接機を始め200Vの電源をばんばん使う金属作家達は感電を恐れる。聞く話によれば今のこの地方はほとんど雨の降らない季節らしい。今日の雨は大変珍しいという。雨が降ればまたそれなりに対処するのだろう。ここは日本と違って、いらぬ取り越し苦労はしないというおおらかな国民性の現れなのだろうと理解する。実際この日以来、毎日晴天で日中は30℃近く気温が上がっていた。
 昼食は同じ公園内の建物にコックさんが来てくれ暖かいランチを毎日提供してくれる。昼食後には機械類のセッティングもようやく終わり、長旅でボーっとしている頭に喝を入れ制作に取りかかる。鉄板に三枚分の蓮葉の下書きをし輪郭を切り抜く。一枚分の葉をバラバラに切断する。今日の制作はここまで。
 ホテルに戻って速攻でシャワーを浴びて8時にロビーに集合。アルゼンチンの夜はここからが長い。地元作家の展覧会を二つ観て9時半から市内のレストラン夕で夕食が始まる。食事中アルパ(ハープのような楽器)の演奏が流れる。食事はおいしい。ワイン、ビールも自由に飲める。12時を回るまでみんなでワイワイとやる。これが連日続くのである。
オープニング風景。地元新聞から
エアープラズマーによる鉄板の切出し作業
左のリードギターのおじいさんがあまりにもシブかったので写真を撮らせてもらった。
お腹がいっぱいになった僕達は魚の頭に紙ナプキンでいたずらしてしまった。

7/16(日)2日目

 ここでもドバイと同じで工具不足で仕事がはかどらない。11人いる作家に対してエアープラズマーは3台、溶接機はMIGが2台スティックが3台。完全に不足している。周りの作家達も本格的に制作にかかり始めまず最初の段階の鉄板の切断をするのためエアープラズマーの順番待ちである。7日間しかない短期間で大型作品を完成させなければならない。とりあえず昨日切り出したパーツのグラインダーがけをと思うがグラインダーも数台しか揃っていない。オルガナイザーに何度も不満を訴える。カナダのDonが使っていない自前のグラインダーを貸してくれる。持つべきものは友だちである。
 午後にはプラズマーが空いたのすべてのカットを終わらせてしまう。夕方には溶接機もグラインダーも手に入りグラインダーがけが完了。日本にいる時に考案した簡単な鉄板曲げ機を自作し一枚目の葉っぱの組立にかかる。なんとかうまく行きそうだ。しかし素早く作るためには常に自分の手元に溶接機とプラズマーとグラインダーは置いておかなければならない。だがそれはここでは不可能。環境の整った僕のアトリエではない。これをどうクリアーするかが海外シンポジウムの醍醐味と頭では思っているが、制作が頻繁に中断しとてもイライラとしている自分がいる。
 通訳の寺田さんから紹介された同じこの町在住の下山さんが簡単な溶接機なら持っているという。そして今回の大ヒットだったパイプベンダーまでも持っているという話。早速明日持ってきてくれるという。これは本当に有り難い話しだった。下山さんは僕の作品にとっても興味を持ってくれ毎日作品の進行具合を見に来てくれスペイン語のまったくわからない僕の通訳もこなしてくれた。あと今日はワールドニュース用のテレビ取材を受ける。
今日は日曜日という事もあって会場はすごい人出であった。
 夜は絵画作家の個展のオープニングパーティーに出席。その後となり町に場所を移動してディナー。庭の美しい素敵なレストランでバーベキューを頂く。牛肉、チキン、魚、の塩と香辛料だけのシンプルな味付けはとっても美味。アルコールが入ると今日の疲れもまたまた癒され、また違う元気が涌いてくる。そこでアルゼンチンタンゴのダンスを披露してもらい食事中タンゴの生演奏もしてもらう。後で聞いた話だがここはレストランではなく個人の邸宅だったそうだ。そこの主人が個人的に僕達彫刻家を招待してくれたらしい。

7/17(月)3日目

 5時ごろ目覚め眠れないのでロビーにあるパソコンでメールチェックをする。2台置いてあるパソコンは夜はいつも埋まっている。
 今日もとてもよい天気。気温も上昇しこれでは日本いるのと変わらない。ただ日本と違って湿気がないので木陰にいると涼しい。しかしガンガンと刺す日射しの中で一日中制作。熔接焼けと日焼けで顔がだんだん黒くなって行く。
 昨日組み立てた葉っぱのカーブが今日見るとどうも気に入らない。全部ばらす事にした。カーブをもっと深くしてもう一度組み直す。
 下山さんが溶接機とパイプベンダーを持ってきてくれた。溶接機は容量が小さいものだったが使えなくもない。保険がわりにプライベートで持っている事にした。ベンダーは手動式の新品であった。何か自分だけのアイテムが備わって勇気が涌いてきた。下山さん寺田さんJuan君らは僕の強力なサポーターだ。今回の制作がなんとかうまく乗り切れそうな気がした。
 二枚目の葉っぱをやっとの思いで組み上げる。この作業は鉄板を曲げたり削ったり微妙な擦り合わせが必要で葉っぱのフォルムを決定する大切なし作業だ。パーツを持ってプラズマーのある場所まで行きパーツを切断しグラインダーで削る。形にうまく合うまでそれを繰り返し熔接する。他の作家はうまくアシスタントを使い制作しているが繊細な感覚の必要な僕の作品にはアシスタントの入れる余地がない。
 今日も見学者がたくさん詰めかけ、新聞記者の取材を受けたりサインをしたり一緒に写真を撮ったりの対応に追われる。日本語を勉強している小、中学生の姉妹から小さな焼き物のプレゼントをもらう。この少女らは何回も見に来てくれた。九州からきた高校生の留学生とも出会う。
 こちらの挨拶には抱き合ってほっぺへのキスがつきものである。サイン書きとともに今後一生分の回数をここですでにこなしてしまったと思う。
 夜は町に新しく設置する彫刻の除幕式に出席。ディナーはアメリカンスタイルのファストフード店で食事。今日初めて日付けが変わらずホテルに帰れた。

 今日一つの問題が持ち上がったイングランドのMichael Lyonsが鉄板が二枚では足りないのでもう一枚必要だと言う。これに対して作家サイドとしてどう思うか?というヒアリングをオルガナイザーのボスのFabricianoから受けた。僕の意見は鉄板の追加は認めた。作家が自分のイメージ通りに作品を完成させたいという気持ちを優先した。しかしこれを最終的に決定するのはオルガナイザー側でありその決定に関して不服は言わないと答えた。ホテルに帰って同室のPitroからどう答えた?と聞かれた。Piotrの意見は、それは認められない。認めるとコンペとしてフェアにならない。彼自身二枚の限られた鉄板を使ってどうやって大きく見せるか自国で一生懸命考えたという。なるほどと思った。僕の考えは甘かったと認識する。レギュレーションを守らないとフェアな審査は出来ない。コンペティションに置いて一番大切なことみんながイコールコンディションと言う事は大前提である。
オルガナイザーはあくまで僕達をプロの彫刻家であると言う事を前提に鉄板の追加は認めないという判断を下した。
目が合うとサインを求められる。
だんだんとかたちが現れてくる。一枚の蓮葉は24パーツで作られている。
昼食風景 左からポーランドのPiotr.カナダのDon.毎日肉料理が食べ切れないほどでてくる。

7/18(火)4日目

 残り一枚の葉っぱの組み立てを終える。まわりの作家達も制作の山場に差しかかり作家達同士にも緊張感が高まる。溶接機、プラズマーなどの根本的な不足によって順番待ちでイラつく。5分だけ貸してといわれれて貸してしまうとまず戻って来ない。熔接している最中もグラインダーを足で踏み付けて、持って行かれないようにガードしているような状態だ。会場を動き回っているアシスタント達が使っていない工具を見つけると直ぐに持って行ってしまうのである。ふと気を抜くととまたグラインダーがない。となりの中国のLi Dongliangが使っている。何度ものことでたまりかねた僕は、持っていた鉄板を下に叩き付けて「いい加減にしろ!!」と叫んだ。
 これは根本的に作家が悪いのではない。道具類が不足しているからだ。オルガナイザー側も限られた予算の中でやり繰りして材料、工具等を提供しているのがわかるのであまりきつくも言いにくい。地元の寺田さんはこれだけこのイベントのために膨大な予算を使っているのだったら、まず作家の制作に関して不自由のない環境を作る事に何故使えないものかと怒りを露にする。あまりにも無駄な宣伝費(市内中にある膨大な量の看板等)を使っている。
 夕方には三枚の葉っぱの本熔接が完了する。
 今日はディナーまでなにも行事がないので夜は寺田さんの案内で街で少し買い物をしビールを飲む。9時半からのディナーはホテルの別室のパーティー会場で立食で始まる。寺田さんの話によるとここでは一番の格式のい高い会場であるらしい。この地方のインディオのシンガーがミニコンサートをしてくれる。夜のもてなしは過剰なほどにいいのだが・・・これもアルゼンチンの国民性なのか?今日はワインを飲み過ぎてしまって頭はくらくらし足にまできた。連日のハードな制作と連夜の午前さまの帰宅で相当体も疲れてきた。
 このシンポジウムを視察に来たメキシコ人から来年メキシコで彫刻シンポジウムを企画するで是非招待したいという打診を受ける。10月くらいに案内を出すというのだが・・。渡された名刺にはホテルのマネージャーの名刺だった。ホテルが主催するシンポジウムになるのだろうか?

7/19(水)5日目

 昨日ワインを飲み過ぎたせいか今日はひどい二日酔いだ。朝食はパス。会場行のバスに乗り遅れてPiotrと一緒にタクシーで会場に向かう。今日は茎の部分の曲げ加工をと思ったがそういう体調でない。気分も高まらない。今日はひたすら鉄板の表面の黒皮をとるグラインダーがけに終始する。直径1.5mの湾曲した鉄板の裏表のグラインダーがけは不安定で体勢も決まらず疲労が腰に集中し制作工程中一番の重労働である。
 疲れもピークに達した。ランチもそこそこに木陰で横になるとそよ風が心地よい。空を見上げる。よく澄んだ青空である。この空は遠く日本までつながっているのだろうがあまりにも遠すぎて想像するのがむずかしい。しかしよくアルゼンチンまで来たものだ。ここまで来て作品を作っている自分を本当に不思議に思う。眼下の広場では市民のアマチュア彫刻家グループが楽しそうに作品を作っている。こちらではこちらの日常がありこちらの時間が自然に流れている。
 想像以上に二日酔いのしんどさから抜けられない。何度仕事を切り上げてホテルに帰ろうと思ったことか。夕方まで苦しみながらグラインダーがけのみを行ない、そしてすべてやり遂げる。今日は彫刻家の田中等さんの友人のアルゼンチンの女性彫刻家のLeleとその友だちが会いに来てくれた。二日酔いと疲労困憊の僕の顔はさぞかしひどかったであろう。
 帰り際に手配してもらったパイプを持ち上げてみてびっくり。とっても軽い。直径50mmのパイプの肉厚がとても薄いのである。これではあきらかに強度不足である。その事をオルガナイザーに伝える。明日、工場に代わりの材料を探しに行く事になった。
 夜は州庁で州知事から感謝状の授与式。そこで簡単なパーティー。これが終わったらもう9時半であった。体調はいまだに完全には戻らない。これからまた延々と続くディナーはもううんざりと今日はさすがにパスする。僕と同じようにホテルに帰る作家があと二人いた。ゆっくりと風呂に入って10時半にはベッドに入る。これがとっても贅沢な時間に思えた。明日作品制作の峠の頂点に向かう。明日に備えて十分な睡眠が必要である。Piotrは今日も午前さまで帰ってきた。
アルゼンチンの空を見上げる
ベンダーマシーン初デビュー!!
Juan君(左)までもがアシスタントに・・

7/20(木)6日目

 昨日グラインダーがけをした三枚の蓮の葉に日本から持ってきた錆の薬品を塗り込む。見る見るまに鉄板変色して行く。完成作品にガラスの水滴を取り付けるためにどうしても錆びさせなければならない。
 鉄材調達のスタッフとJuan君とでボロボロのトラックに乗り込み材料工場に行き鉄パイプを探す。なぜか僕の必要な直径50mmだけが厚手の肉厚が無い。1サイズ下げて直径40mmのパイプを選ぶ。結果的には40mmの方が葉の大きさに対して繊細で美しく見えた。大正解であった。
 材料を積んで帰ってくると三枚の蓮の葉は美しく錆びていた。他の作家は錆は自然に任せるとか酸で錆びさせるといっていた。この液体は彼らの考え以上に素早く美しく錆びる。何人もの作家がこの液体の成分は何かと尋ねてくる。
 午後から下山さんに借りたベンダーでパイプを曲げ次々と蓮の葉を立てて行く。こういう仕事はスピードが必要だ。迷っているといいものが逃げて行く。この作業は自分の思い描いたイメージを素早く線で表すドローイングに似ている。この時ばかりは何人ものアシスタントを使って素早く、素早くイメージが逃げないように進めた。夕方には三枚の蓮の葉が立ち上がり全高4メートルの作品全体が姿を現わした。
 手動式のベンダーには思わぬ発見があった。このベンダーは僕の作品制作にとっても適している。基本的には車のジャッキと同じ構造なのでモーター式とは違って僕の微妙な力加減でカーブを作り出せる。頭から発せられるカーブのイメージを僕の微妙な手加減でそれを再現する。こういった要素は僕の作品には不可欠である。日本に帰って是非購入したい工具である。簡単なものなのでそんなに高価なものではないだろうと思う。
 前述したがこのベンダーは下山さんが以前に何気なく購入したものらしい。一度も使われる事なく倉庫に眠っていたらしい。僕にこの場で使われるためにずっと待っていてくれていたのだろうかと考えると不思議な想いがする。まず一般の市民が特殊工具であるベンダーを何気なく買うという事は考え難い。これも何かの不思議な縁にちがいない。
 この工具がなければ今回の作品はずいぶんと違ったものになっていたと思う。パイプを曲げるために工場に持ち込んだり、パイプを切り刻んでカーブをつけていたならもっと時間はかかるし今回のようなしっくりとした構成はむずかしかったかもしれない。何はともあれ今回の制作の峠は通り越した。
 今日のディナーも空港近くのレストランで豪華な食事。生まれてはじめて血のソーセージを食べた。
 完成間近の安堵感からか帰りのバスの中では眠ってしまう。
 

7/21(金)7日目

 今日が完成予定。茎部分の錆つけと最後の決めであるガラスをセットすると完成である。今日はゆっくりとしたペースで仕事を進める。ガラスの水滴をセットする度に見守る人々から"Beautiful !!"との声をもらう。沢山の人達から市民投票はHasegawaのLotus に投票した、という言葉を頂いた。何人もの他の作家からも"you are the best !!"との言葉を貰った。審査の結果はどうであれ作品をほとんど自分のイメージ通り作り上げる事ができた。
 3時頃にはすべての作業が終了して下山さんと寺田さんと3人で会場のオープンレストランでビールで祝杯をあげる。本当に今回の仕事はお二人の御協力なしでは成し得なかった事である。毎日僕の制作の進行を見守ってくれサポートしてくれた。
 今晩は僕だけ他の作家とは別行動である。今回の大スポンサーであるアルゼンチンHONDAの社長がこの町のディーラーに来ておりパーティーがあるので出席して欲しいという依頼だ。会場にHONDAユーザーを招待して地元出身のHONDAのレーシングドライバーが出席した交流パーティーだった。日本人ということで僕も紹介されプレゼントを頂いた。HONDAの社長は吉野さんという日本の方であった。コンペのスポンサー賞も提供しており授賞式にも出席されていた。
 この後オルガナイザーのボスのFabricianoと下山さんと寺田さんとでイタリアンレストランで食事する。もの静かなFabricianoと今回のビエンナーレのことについてゆっくりと話す機会に恵まれた。今回の作品群は一ヶ月この公園内で披露された後、これから新しくつくる公園の「ミュージックパーク」に設置されるらしい。(今回の彫刻のテーマはミュージックである)ちなみに僕の作品はその公園の中にできる池の中に配置される。これだと心配していたガラスパーツの盗難の恐れもクリアーできる。水の中に入れるのならやっぱり茎を分厚い材料に変更してよかった。あと彼から大勢の応募者の中からの作家の選考の基準、賞を決める審査員の選定など考え方を教えてもらった。
 この町には大小合わせて300以上もの彫刻が町に飾られている。これと言ってなんの産業も特色も無いレシステンシア市をアルゼンチン一の彫刻の町にしたのは彫刻家である彼の功績であるという。まず自分から率先して行動しそれに人がついてくるという彼のやり方は人格的にも周りの人間からも尊敬されてる。ということを寺田さんから教えてもらった。どうも毎日の豪華な食事は彼が一件一件レストランをまわって交渉して提供してもらっているらしい。この町では彼の頼みはみな心良く引き受けくれるらしい。それで毎回彼がレストランのオーナーに感謝状と盾を授与している意味がわかった。
通訳のJuan君とその妹。ちなみに彼は志村けんと岡村のファンである。
怪しい日本語だったが本当によく頑張ってくれた。
彼らは英語は堪能であった。英語で会話した方が日本語で話すより正確だったかもしれない。

最後のガラスの水滴を取り付ける。

表彰式 今回の参加作歌達 地元新聞より

7/22(土)最終日

 今日の午前中で制作期間の終了である。ほとんどの作家が昨日で作品を作り終えたが同室のPiotrはまだ完成していない。昨晩も10時まで仕事をしていたらしい。今朝も早く出かけて行った。ホテルのテレビのローカルチャンネルでは一日中このシンポジウムの映像が流れている。朝靄の中で彼が動いているのが確認できる。シンポジウムの3日目から作家の各ブースにカメラが取り付けられそれぞれの作家の制作風景の映像がインターネットを通してリアルタイムに世界に流れていた。僕も何人かの日本の知人にアドレスを知らせた。家内も観ていたらしく日本から一番遠くに離れている僕が12時間の時差を越えてパソコンの中で動いているのを見てとっても不思議な気分になったらしい。しかし欠点は僕達は知らぬ間に少しづつ作業場所が移動して行く。カメラアングルから外れたらまったく写らない。こまめに作家の制作場所にカメラを合わせる必要がある。
 僕が会場に着く頃にはきれいに周りが片付けられており作品をゆったりとした配置に並べ変えてあった。僕の作品は設置の際はベースプレートを埋没するため今日はそれを隠すために砂を用意してもらいベース部分を隠した。これですべてが完了した。完成作品についてなにも思い残す事はない。本当にいい仕事ができた。
 今回の11人の完成作品の中で一番だと思われる作品を作家同士で投票を行なった。これは市民の一般投票とはまた別である。作品が見える木陰でビールを飲みながらJuan君や地元の子供達(毎日見に来る悪ガキども)と雑談をして時間を過ごす。
 陽が暮れ始めた頃、特設野外ステージで受賞式が始まる。何千人もの人達が詰め掛け、すごい盛り上がりである。地元のテレビアナウンサーが司会を勤める。まず大学生の彫刻家達に参加賞のメダルが授与される。次は僕達の番でる。スポンサー賞などが発表され次々に彫刻家の名前が呼ばれる。彫刻家賞の授与の時僕の名前が呼ばれた。彫刻家賞とは先ほどの僕達が投票したベスト彫刻家賞の事である。僕の作品はまわりのプロの彫刻家から選ばれた名誉あるものとなった。しかしこれには賞金は付かない。手を上げてガッツポーズをしたものの少しがっくり。この後、市民賞が発表されいよいよ3位からの発表が始まった。
3rd Prize Masahiro Hasegawa de Japon !!!
もう一度僕の名前が呼ばれたのだ!!次は前にも増してのガッツポーズ!メダルも盾もひときわ大きい。2nd Prizeは地元アルゼンチンのJuan Pezzani、1st Prizeは僕の同室のポーランドのPiotr Twardowskiに決まった。その瞬間後方で花火が打ち上がる。三人で抱き合って喜ぶ。3人に大きなシャンパンが渡されシャンパンがけが始まる。観客の歓声に包まれ参加者全員がステージ中央に集まりフィナーレを迎えた。片道切符で挑んだアルゼンチンだが参加費も一番遠い国のせいか規定の金額よりも多く頂き、結果的には賞金も持ち帰る事ができた。成せばなるものだ。
 今夜のお別れパーティーはこれまた迎賓館のような歴史的建物で100人ほどが出席して盛大に行なわれた。中盤から会場中央スペースをつくりアルゼンチンタンゴが始まる。それから生バンドの演奏に合わせてダンスパーティーとなった。さすがに踊り好きの民族である。日付けが変わっても終わる気配がない。多分これはは朝方まで続くのであろう。

7/23(日)〜26日(水)

 昨日のお別れパーティーでビエンナーレの全日程が終了した。朝Piotrと別れの挨拶をする。彼は飛行機の都合でもう一泊するらしい。小さな息子さんにと日本から持ってきた折り紙をプレゼントする。僕には何も渡すものが無いといいながら彼が使っていた熔接用のゴーグルを記念にと僕に手渡してくれた。戦時中のパイロット使っていたような鉄製のクラッシックなデザインである。また再会を誓って10時にチェックアウト。
 今日は夜の飛行機の時間まで下山さんに車でこのあたりを案内して頂いた。車中の会話の中で今日本で活躍している若手の俳優の山本耕史さんは下山さんの甥にあたるらしく下山さんの名前の「耕史」(こうしと読む)からつけられた名前らしい。下山さんが「あと1日あればイグアスの滝まで行く事ができるのだが・・・」と。残念!お昼にはお宅で日本食を御馳走になった。ブエノスアイレスから取り寄せたサーモンの刺身、おばあちゃんがつくるお味噌汁(手作りの豆腐入り)、煮物、お漬け物どれを食べてもおいしかった。
 20:40発の飛行機に乗るため飛行場まで送ってもらったのだが、今度もまたもや飛行機が4時間も遅れているという。もう一度下山さんのお宅に戻り仮眠させてもらう事にした。
 ブエノスからこちらに向かって飛行機が飛び立ったという事を確認をしてから0時半頃再びお宅を出発。飛行場のラウンジでアルゼンチンHONDAの吉野社長と再会する。吉野さんは今までここで延々待っていたらしい。到着は3時ころになるので今晩予約してあったホテルにチェックインする事が出来ない。たくさんの荷物を持ってのブエノスの夜は危険なので朝、明るくなるまで吉野さんのお宅で休ませてもらえることになった。
 結局朝9時まで眠ってしまった。吉野さんに井上さん宅まで送って頂き井上さんと一週間ぶりの再会。受賞した事を報告。とても喜んで頂いた。アルゼンチンでは飛行機が遅れたり欠航するのは日常茶飯事でいつなにが起こるかわからない。アルゼンチンから飛行機が飛び立つまで気は抜けないという。
井上さんにブエノスアイレス市内を案内してもらう。日本庭園に飾ってある井上さんの作品の前で記念撮影。日本大使館広報文化センターでの交流展の場所を確認。
 夕方5時半頃井上さん一家と別れタクシーにて因縁のエセイサ空港に向かう。出国の際、職員に色々と英語で質問されるのだが一気に疲れが出てきて英語すら理解できない。僕の頭の中はもうそういう外国語を理解しようとする余力はまったくなかった。荷物の中には危険なものは入っていないか?と聞いていたのだと思うが、チグハグな意味不明の答えしか出来ない。半ば職員はあきれ顔で僕を通過させてくれた。
 エセイサ空港を飛び立った時は心底ほっとした。8時間後にはアメリカである。帰路は、マイアミ、ダラスを経由して14時間のフライトで定刻の26日3時40分に関西空港に無事到着した。
左からお世話になった寺田さん.下山さんの奥さん.下山さん 下山さん宅にて

あとがき

 今回の旅は遠く離れた異国で日本人である有り難みをしみじみと感じた。スペイン語圏の南米大陸では英語は通じないことは容易に想像できた。少しはスペイン語を勉強してからと思っていたのだがさっぱりの手付かず状態で渡航した。想像通りあちらではほとんど英語も通じない。レシステンシアの空港を降り立った時、日本語で「ようこそ」と寺田さんに話し掛けられた時は正直驚いた。その後下山さんを紹介して頂き工具類等を貸して頂いたり新聞の取材や市民の人達とのコミュニケーションの間に入って頂いた。僕の英語だけではここまで深くアルゼンチンの人々を知る事はできなかっただろう。HONDAの吉野社長にも心良くお家に泊めて頂いたり、彫刻家の井上さんには最初から最後までお世話になった。遠い国であるからこそ人の情の有り難さをより強く感じる事ができたと思う。

 帰りの飛行機のなかで今回のシンポジウムを振り返ってみた。作品に関しては満足している。この短期間でこのスケール、このクオリティーは自分でもよくやったと思う。しかし反省すべき点もいくつかあった。作品のタイトルである。よく人々に質問されたのはなぜ「Lotus」なのか?という質問である。今回のテーマは「Music」である。テーマとつながらないのである。「私達日本人には、しずくが落ちる音でさえ美しい音楽だと捉える感性がある。」と答えるとほとんどの方に作品を理解してもらえた。タイトルを安易に「Lotus」とした事に後悔した。せめて「Lotus-Nature Music」など作品のコンセプトを導きやすい言葉を付け加えていればよかったと思った。そしてそれは英語では無く英語をあまりわからない国の人達のためにスペイン語にした方がよりベターであっただろう。他の作家達のタイトルはそれをかなり考慮できていたように思う。
 次はあくまでコンペティション(競争)という視点からの事ではある。1st Prize を取ったPiotrは最後まで作品が出来ずにいた。仕上げは最終的には錆びさせたいとのことだったが彼にとって錆とは塩水をかけて一週間くらいはかかるものだと思っているのでそれは諦めていた。だが僕が日本からもっていった錆促進液は見事に半日で錆びる。彼はそれに驚き、もしまだ余っているのなら使ってみたいと申し出たので心良く彼に残りを差し出した。審査日の午前中まで作業していた彼にコツのいる錆液の塗布を手伝ってあげた。審査の時には見事にきれいな錆が浮かび上がった。彼の作品は複雑なパーツの構成なので、鉄板の色とグラインダーのかけ後が残ったままの中途半端な状態ではこんなに見栄えはしなかったように思う。要するに彼の作品に錆が付いてなければ審査の順位が入れ代わっていた可能性は十分にあったと後になって思った。僕の作品の評判はすこぶるよかった。
 しかし後悔はない。シンポジウム形式で作品を作るという事は作家同士の友情を育むことやテクニックの公開、情報交換も重要な要素であると思うからだ。一番仕事量が多く時間がギリギリまで追い込まれてもにこやかな表情で制作していた彼の制作姿勢は僕の心を打つものがあった。
 先日帰国後初めて彼からメールがあった。「アルゼンチンでは言いそびれたがあなたの作品は魅力的で大変興味深い。ポーランドのJapanese Culture and Technique Centerで2007年か2008年にジョイントの展覧会を企画したいのだが・・・。という内容だった。彼は僕に対して一つの敬意を払ってくれている。最終的には国を越えても人間と人間の信頼関係が一番大切であると信じたい。        2006年 9月10日 

 International Sculpture Biennial 2006 Chaco Argentina 報告記

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